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2011年5月20日 (金)

うれしいさんと残念さん

昨日は、うれしいことと、残念なことがありました。

うれしいさんは昼間やってきて、残念さんは夜に訪れました。

これって物語としてよくない構成です。
物語は先に落としておいて、あとで上げるんです。
すると、見てスッキリなドラマになるんです。

神様はドラマづくりの心得を知らんやつだ。

残念さんが訪れたあと、わたしは10分間、ぺったんこになっていました。
心身ともにぺったんこです。
ぺったんこになりながら、3行前の言葉をぶつぶつつぶやきます。

神様はドラマづくりの心得を知らんやつだ。

でも10分後、わたしは元気にめし食っていました。
気付いたんです。

「ドラマは神様が創るんじゃない。わたしが創るんだ」って。

すると話はこうなります。
ここはラストじゃないんです。
ラストは落ちません。上がるんです。
わたしは読後感の悪い小説は嫌いだし、救われないドラマは見たくありません。
これから上げればいいのです。
ラストはわたしが握ってる。わたしが未来を変えられるんです。

これからこれから。

それにはめし食っとこ。これです。

食後、ふと、人と話したくなり、母に電話しました。
わたしはドラマ作りの心得がありますので、
世間話にまじえて、ちらっと残念さんを紹介し、
そのあとうれしいさんをちらつかせました。

母はふんふんふんと聞いて、最後にこう言いました。

「ずっとあんたががんばる姿を見てきてさ、もう無理かなと思ってたのよ。
生きているうちに、あんたの映像を見るの、あきらめてたんだ。
だからね、現実にあんたのドラマが見られる。って夢のようなんだよ。
1年後なら、わたしの寿命もなんとか間に合う。
夢のような気持ちで、過ごしているんだよ」

母との電話を終えて、考えました。

わたしも母親です。娘を想う気持ちは同じはずです。
わたし、娘の成功を望んでいるかというと、どうでしょう?
なにより大事なのは娘が生きていること。
生きて、命を楽しんでいること。
娘が自分の人生に満足していれば、わたしはそれだけでうれしいのです。
母として娘の人生を祝福したい。シンプルです。

ひょっとしたら母も、わたしのドラマがうれしいというより
わたしがうれしいから、うれしいのかもしれません。
母が喜んでくれると、わたしの喜びも倍になります。
それを知っていて、喜んでくれているのかもしれません。
親って、子どもを祝福するために、存在するのかもしれません。

人は誰もが自分のために命を与えられ、その命を全うします。
でも、親子間では、どうでしょう。
「親が自分のために存在してくれる」
子どもはそういう感じ方をしても、いいのかもしれません。
正確には誤解で、それに甘えてはいけないのだけれど、
そう感じても許される絆があるのかもしれません。

NHKの『マドンナ・ヴェルデ』は、母親に代理出産させる女医が登場します。
海堂さんの小説『ジーン・ワルツ』が原作です。
同じ小説を原作にした映画『ジーン・ワルツ』を見たわたしは
「映像倫理に反するのではないか」と思うくらい、ぞっとしました。
女医は自分の母親を「生む道具」とみなしています。
精子を手に入れ、相手の承諾も得ずに子どもを手に入れる。
母親の命までも質屋に放り込む(感覚です)。
そんな女医を「がんばっておかあさんになれて幸せだね」と描いています。
医療技術を個人利用しただけのようにわたしには見えました。
なにより「母親が娘の野心のために利用される」のが、非人道的に見えました。

でもドラマ『マドンナ・ヴェルデ』は違います。
同じ設定ですが、描き方や視点が違い、エピソードも違います。
この女医は母を道具に使っている。という視点を創り手がちゃんと持っています。
その罪を創り手が意識していると、こちらも安心して見られるというものです。
その上で、医者としての信念、開拓者の非情、葛藤を描いています。

わたし、代理出産自体は、まだ受け入れられないのですが、
松坂慶子演じる母の「ひたむきな母性」には、抗えない説得力を感じます。

観る人それぞれの立場から意見を引き出そうとするかのように
ドラマは丁寧に作られています。問題提起、ですね。

最後、どうオチをつけるのかしら。楽しみです。

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コメント

そう思います。
人は自分が生きたい人生をいろんなデコボコ道や
イバラの道を潜りぬけて(その方が光が見えたときの
感覚が冴えわたります)創っていくのだと信じています。

JUNKOさんは、自分が観たいラストに向かって
必要な道を通っているだけなのかもしれません。
やめなければ、観たいラストが絶対観れる!

私も観たいラストがあります。もうここまで粘ったら
それをやめて他のラストにむかってる自分を想像すると
シカバネになっている腑抜けの自分しかいないので
そっちのほうがおそろしいです……

マドンナ・ヴェルデ、観てます。私は初回の海辺で幼い娘が走っている
姿を回想する松阪慶子の画で思わずウルッときてしまって
びっくりしました。「ああ、私もしっかり女の子の母親だなぁ」と
自分のことを再認識しました。

ラスト、どう持っていくのか
楽しみですよね。

なみさみさま
粘っているんですね。
粘れるということは、それだけ価値のあることですから
粘ってくださいね。
きっと納得のいくラストが見えます。

わたしはがんばる方向性を時々修正します。
なぜかというと、ラストを明確には想定しないで走ってるのです。
あれ、違うかな?と思うといったんストップしてコースを変えたりします。
やみくもに走りながらコースを決めていく、という感じです。
物語づくりもラストを決めずにスタートするので、
かなり右往左往するし、手間取ります。
だから、人より時間がかかるのですが、なみなみさんのおっしゃる通り、
結局は自分が見たいラストに向かっているのでしょうね。
必要な道、なんですね。

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